遺伝子特許に関して

「ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝」(J・クレイグ・ベンター著、野中香方子訳、化学同人)[1]という本を読みました。

図1 「ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝」書影

クレイグ・ベンターは、ヒトのゲノムの全塩基配列を解析する国際的プロジェクトである「ヒトゲノム計画」に対抗して、民間企業の中にあってヒトゲノムを解読しました。一説によると、国際プロジェクト「ヒトゲノム計画」の1/10の費用でヒトゲノムの解読を成し遂げたといいます[2]
この本では、民間企業の中にあってヒトゲノム解読チームを率いたクレイグ・ベンターがなぜそのような偉業をなしえたのか、解読方法の技術的な側面、民間企業がヒトゲノムを解読してどのように収益化をはかろうとしたのか、ヒトゲノム解読の主導権を握ろうとする者たちの闘争などが詳細に描かれていて、大変興味深く読みました。

まず言葉の整理をしておきましょう。
・ゲノムとは、生物が持つすべての遺伝情報(DNAの全塩基配列)のことを言います。
・DNA配列(DNA塩基配列)とは、塩基が並んだ物質そのもの(遺伝情報として意味のない部分も含む)を指します。
・遺伝子とは、DNA配列のうちタンパク質をつくる特定の領域、すなわち遺伝的に意味のある情報を持つ領域を指します。ヒトの場合、遺伝子はゲノムの約1~2%を占めるに過ぎないと言われています。
・アミノ酸とは、タンパク質を構成する最小単位の有機化合物であり、体内では遺伝子を構成するDNA配列からアミノ酸配列への変換がなされます(DNAの3つの塩基の並びが1つのアミノ酸に対応します)。

図2 DNAの構造(模式図)

ヒトの全ゲノムを解読するとDNA配列の中で遺伝子がどのような塩基配列から成るのかがわかります。それは新規な知見です。

クレイグ・ベンターの所属していた企業、その他の民間企業、NIH(米国国立衛生研究所)といった公的機関が遺伝子配列に関する特許を出願することになります。

ここで、遺伝子配列は特許になり得るのかが問題となります。

米国では、最高裁によって遺伝子の特許適格性に関する指針となる判決が出されます(ミリアッド事件)。
ミリアッド事件(Myriad Genetics事件)の経緯を簡単に説明します(以下主に文献[3][4]を参考にしました)。

遺伝子検査の会社であるミリアッド社は、「特定の遺伝子」の塩基配列に欠陥などの変異があった場合、乳がんや卵巣がんの発症リスクが高まる部位を見出し、その単離された「特定の遺伝子」に関して特許を取得しました(米国特許5747282号等)。より具体的には、その遺伝子をアミノ酸配列または塩基配列で特定するものでした。
ミリアッド社は本件特許に基づいて遺伝子診断事業を実施します。
これに危機感を抱いた分子病理学会等(代理人は米国自由人権協会)はニューヨーク地裁に対して、ミリアッド社の特許の無効を提訴しました。この特許の存在によって、患者からこれらの遺伝子を単離する行為等が、本件特許の実施に該当する可能性があると考えられたからです。こうして、遺伝子の特許適格性が争われることになりました。
裁判の経緯については省略しますが、最終的な連邦最高裁の判決は、ミリアッド社の遺伝子特許の特許適格性を否定するものでした。

連邦最高裁が判示した重要な点は、以下のものです。
・合成DNAは人工物であることから特許適格性を有する。
・単離されたDNAは(長いDNA鎖から切り離して単離されることによって端部の構造は天然のものとは異なるものの)特許適格性を満たさない。
・天然のDNAからイントロン(遺伝子として意味のない部分)を除去して作られたcDNAは人工物であり特許適格性を有する。
この連邦最高裁の判決により、以後、単離されたDNAは米国において特許適格性がないものとして審査されることとなりました。

さて、日本の特許審査においては、遺伝子配列はどのように審査されるのでしょうか。
日本国特許庁の特許・実用新案審査基準[5]によると、遺伝子工学によって得られたものは、その他の生物関連発明と同様に扱われることになっています。
特に、遺伝子等の発明において、それらの有用性が明細書等に記載されておらず、かつ何らそれらの有用性が類推できないものは、業として利用できない発明であり、特許法第29条第1項柱書の要件に違反するとされていますが、単離されたDNAにすぎないとしても、それをもって直ちに特許適格性を有しないというものではないようです。そのため、単離されたDNAに限れば、米国よりも日本国の方が特許されやすいかもしれません。つまり、単離されたDNAであっても未公開であれば一定の要件のもと特許される可能性はあると考えられます。
しかし、公開され、遺伝子が特定されているDNA配列から単離したDNAをそのまま出願しても新規性がないとされ、改変されたDNA配列だとしても、作用効果が容易に予測されるものであれば進歩性がないとして拒絶されるでしょう。

<参考文献>
[1] 「ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝」(J・クレイグ・ベンター著、野中香方子訳、化学同人)
[2]ウィキペディア「セレラ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%A9
[3] 遺伝子の特許適格性に関する一考察 加藤浩 https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/property/property_7/each/05.pdf 
[4]最高裁判決紹介 ASSOCIATION FOR MOLECULAR PATHOLOGY, ET AL., Petitioners, v. MYRIAD GENETICS, INC., ET AL. https://www.jpaa.or.jp/cms/wp-content/uploads/2017/03/AssocMolecPathology_Myriad.pdf
[5] 日本国特許庁の特許・実用新案審査基準 https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/tukujitu_kijun/document/index/all.pdf
[6] 「国際ヒトゲノム計画関係資料の整理とその利用に向けた予備的検討」 https://www.kahaku.go.jp/albums/abm.php?d=7846&f=abm00018756.pdf&n=L_BNMNS_E48_1.pdf
[7] 戦略に欠けた日本のヒトゲノム解読 https://www.nikkei-science.com/page/magazine/0009/hito6.html
[8] 「遺伝子の理解が地球と生き物を守る」 https://www.jacga.jp/wp-content/uploads/2015/11/guide-line3_1.pdf